第4章 「利己的遺伝子」と「種の保存」
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1. 「利己的遺伝子」という言葉をめぐって
「個」と進化
「個」の認識は存在の原点
大昔から自明だっただろう
「個人」がかけがえのない存在であり、基本的な権利を守られるべきものであり、主体的な存在でなければならないとするのは、18世紀啓蒙主義以後の新しい発見 ところが、進化で問題になるのは遺伝子であって個体ではない 近年の進化生物学が明らかにしたことは、遺伝子の存続こそが生命の本質であり、遺伝子が存続していくために個体というものも含めて様々な現象が生じた、ということ 遺伝子は個体という箱の中に入っている
個体はいずれ死ぬが、遺伝子は受け継がれ、その意味で遺伝子は不滅
生物学的な進化においては「個体」にはあまり意味がないということになりそうで、私たちはこれをどう考えればよいのか
ドーキンスが広めたが、アイデア自体は多くの進化生物学者による近年の進歩の集大成
「進化の単位は、究極的には集団でも個体でもなく遺伝子である」
ドーキンスの最大の貢献は、一般向けの本を書いて進化に関する最新のアイデアを普及させたこと
「利己的」という言葉
生物の世界では生存率・繁殖率の高い遺伝子が集団中に広まっていく
生物の発生から現在まで存続している遺伝子は、他のタイプの遺伝子よりも多く受け継がれてきたもの
複製の効率さを表した比喩
日常的な意味での個人の利己的な行動のことではない
利己性を持った遺伝子の乗り物である個体が、いわゆる利己的行動をするように遺伝子によって作られる事はありえる
生物の生態環境は非常に厳しい→他個体をさしおいてもその競争に勝ち抜くように利己的行動をすることが、その個体の中にいる遺伝子が増えることに有利な方策であることは大いに有り得る
同時に遺伝子がよりよく存続していくような個体の行動は、個体同士が互いに仲良くして世話し合うような行動であることも大いに有り得る
2. 種の保存論の誤り
レミングは種の保存のために自殺するのか?
1970年代の半ばごろまで、多くの生物学者たちは、進化は種の利益のために起こると考えていた
これは科学的には大きな間違いで、この間違いのために、動物行動学や進化生物学は長い間、停滞を余儀なくされた
そもそも種にとっての利益とはなにか
多くの議論では、種そのものが存続していくことを想定している
種という集団を構成しているのは個々の個体だが、それぞれの個体の利益が、つねに種という集団の利益と一致するものか?
すべての個体の存続が種の存続になるわけではない
個体数が増えすぎたときなどは、一部の個体が死んでくれたほうが、種そのものは存続する希望が持てる事態が生じる
動物が本当に種の保存のために行動するように作られているのならば、個体の利益よりも種の利益が優先して淘汰が起こっていることになる
「北欧のレミングは、増えすぎると集団自殺して個体数を減らし、種の存続をはかる」 レミングというのは齧歯類で、ときどき個体数が非常に増加することがある
そのようなときに確かにレミングは続々と出生地を離れ、暴走していくことがある
崖から海に身を投げて死んでしまったのはそのごく一部似すぎず、大方のレミングは新しい森へと到着して、そこに住み着く
レミングは個体数が増えすぎて居心地よく暮らせる見通しの少なくなった土地を捨て、新天地を探して分散している
闇雲に走っているだけで、その行く手に崖があって海があった不運なレミングは彼らの意に反して死んでしまう運命になっただけ
レミングやその近縁種での研究から、新天地を目指した個体は元の場所で繁殖競争に成功しなかった個体であることがわかっている
彼らは種、あるいは同種の仲間のために土地を捨てているのではなく、彼ら自身の新しい繁殖のチャンスのために移動(生態学の用語では分散)しているだけ 種の利益を優先するために個体の利益を犠牲にするという性質は遺伝的には進化できない
群淘汰の誤り
「種の利益を優先させるために、個体の利益を犠牲にする」という遺伝子と「種の利益を優先させず、個体の利益を犠牲にしない」という遺伝子があったとする
レミングAは前者、レミングBは後者を持っているとする
レミングAは自己犠牲をして死ぬがレミングBは自己犠牲をしない
次の世代には自己犠牲をしない遺伝子だけが残る
自己犠牲とは文字通り適応度を下げることなので、適応度の高いものが残されていく自然淘汰の過程を生き延びられないのは自明 自己犠牲をする遺伝子を持ったレミングばかりの群れと自己犠牲をしない遺伝子を持ったレミングばかりの群れが隣りにあったとする
自己犠牲をするグループは個体数の増加につれて誰かが自己犠牲をしてくれるので集団として反映するが、自己犠牲しないグループは増えすぎて自滅するのではないか
それで今いるレミングはみな、自己犠牲をするグループ出身のレミングばかりで、レミングは種の保存のために行動するようになったのではないか
「異なる遺伝子型同士の適応度の差」ではなく、「異なる遺伝子型を持った集団どうしの適応度の差」
集団の絶滅率や繁殖率の話で、自然淘汰の単位は遺伝子ではなく集団
一見もっともらしい群淘汰のシナリオは働かない
自己犠牲ばかりの集団というものが仮にあったとしても、隣の集団から自己犠牲しない個体が1個体でも移住してきたらおしまい
これを防ぐためには、集団が他の集団から完璧に隔離されていなければならないが、自然状態ではほとんどありえない
仮に完璧に隔離していたとしても、突然変異で自己犠牲しないという遺伝子が生じてくる可能性を消しされない 個体が自己犠牲するタイプかそうでないかを見分けることができ、自己犠牲するタイプは同じタイプの個体に対してのみ自己犠牲をし、そうでないタイプの個体のためにはしてやらない、という区別ができればどうか
同じタイプかどうかを見分けることができるためには、自己犠牲する集団の個体同士が異常なほど近親婚を繰り返していかなければならない 自然状態ではほとんどありえない
結論として、群淘汰はなかなか働かないということになる
実際の動物の行動を野外で観察しても、純粋に種の保存のために自己犠牲していると思われる行動は見つかっていない
1960年代の初めごろ、イギリスの動物学者が、広範囲にわたる動物の行動の一つ一つを、個体数を調節して種の存続をはかるものであると解釈した著書を著した(Wynne-Edwards, 1962) 多くの学者の間で暗黙のうちに仮定されていた群淘汰の考えが、非常にあからさまに現れることとなった
ナイーブな群淘汰思考は排されるようになったが、それを一般に普及させる役割を果たしたのがドーキンス 「種」という集団のあいまいさ
種とは、互いに交配可能で、その子孫が生殖力を持つ個体の集まりを指す その種の分布域が広ければ、同じ種の個体同士でも、一生会うこともない個体がたくさんいる
何かできるとしたら、せいぜい自分が属している集団の他個体のためだけ
群淘汰のもう一つの難点は、競争の単位とする集団の範囲が曖昧なこと
種の保存という言葉を使う人々は、たいていの場合、念頭にあるのは生物学的種ではなく、適当に「集団」を考えているだけのようだ
進化は複製率の異なる複製体どうしの間に起こる現象であり、何がそのような複製の単位となれるのかは難しい問題
ローレンツの功罪
動物が自分と同じ種に属する個体に対して向ける攻撃行動、すなわち種内攻撃の機能を考察したもので、人間の心にひそむ攻撃性に対しても考察が寄せられている 1963年に書かれたもので、そこで使われていた理論は一貫して群淘汰だった
「種の保存」という言葉が頻繁に使われている
3. 淘汰の単位の階層性
群淘汰の考えと個体の地位
群淘汰の考えでは、個体はどのように見られているか
個体が重く見られていないことは確か
集団のためならば、だれかが死んでもしょうがないというわけなので、これは全体主義
群淘汰の考えに支配されていた頃には、集団の中に存在している色々な個体の、それぞれの立場とでもいうものが注目されたことはなかった
誰が死んで誰が生き残るか、ということも大した疑問ではなかった
雄がしばしば子殺しをするので有名
1頭の雄と数頭の雌からなる集団を作る
群れの外には雌の群れを持てない雄がたくさんいる
彼らは、群れを乗っ取る機会を常に狙っており、少しでもその機があるとみるや、群れ雄に対して挑戦する
群れを乗っ取ることができた場合は、前の雄の残した授乳中の子供を次々と噛み殺してしまう
子を殺されたメスたちは発情を再開し、自分の子を殺した雄と交尾し、その雄の子供が生まれることになる
この現象に対する解釈は、かつては個体数調整のためというものだった
増えすぎたサルの個体数を調節して種全体の存続を救うという説明
なぜ雌は抵抗しないのか、こんな形で個体数調節が行われるのかは考えられてこなかった
種の繁栄は個体の繁殖の上に成り立つから、雄と雌は、種の繁栄という共通の利益のもとに、一致協力して繁殖を行うものと考えられていた
雄の利益と雌の利益との間には葛藤があるかもしれないとはまったく考えられなかった
個体は種のために繁殖して個体を増やし、種のために個体を殺して減少させる、主体性もなにもない存在でしかなかった
生物の進化が群淘汰で起こってきたのであれば、「個」には何の意味もなく、全ては種の繁栄のために捧げよということだけだっただろう
これでは、生物進化は全体主義的イデオロギーに科学的根拠と称するものを与えることしかできなかっただろう
BOX4: 霊長類の子殺し
20種類以上の霊長類で、雄による子殺し行動が報告されている 1. 1頭の雄が数頭の雌と暮らす一夫多妻の配偶システムを持っており、群れの外には、配偶相手の雌を持てない雄がたくさん存在する 2. 子殺しをするのは、群れを乗っ取った直後の雄で、自分の実子は殺さない 3. 殺されるのは、母親に授乳性無排卵を引き起こしている乳児だけで、母親が発情を再開するようになった、離乳に達した子供は殺されない 4. 子殺しが見られるかどうかは、個体群密度が高いか低いかによるのではなく、繁殖から除外されたあぶれ雄がどのくらい存在するかによって決まる
霊長類以外でも、ライオンなど、いくつかの哺乳類で雄による子殺しが知られているが、いずれも、繁殖に参加できない雄が存在する、授乳によって雌の発情が阻害される、授乳中の子がいなくなれば、雌はすぐに発情を再開する、という点では同じ 子殺しに関して、雌と雄では利害の対立が生じると考えられる
ハヌマンラングールでも、雌は子を必死で守ろうとする
血縁関係にある雌同士が協力して雄からの攻撃をかわそうとしたり、授乳中の子を持った雌が、新しい雄のいる群れから一時的に避難したりすることもある
しかし、雌の対抗戦略はあまり効果がないようだ
生涯における繁殖のチャンスを考えた場合、雄にとっての子殺しの利益のほうが、雌にとっての子殺し帽子の利益よりも大きいからということのようだ
卵が卵になるまでの間
ビクトリア朝時代のイギリスの作家、サミュエル・バトラー「ニワトリは、卵が次の卵を作るまでの一段階にすぎない」
同時代のドイツの発生学者であるA.ワイズマンは「生殖質の不変の流れ」ということを言った
これらは群淘汰の考えとは視点がまったく異なるが、やはり個体というものの意味の薄さを表現している
現代の利己的遺伝子の考えに近いもの
集団のためと言っても、遺伝子のためと言っても、レベルは違うものの結局は同じで、個体は重要ではない
進化生物学にとって、近代的な自我の発見にあたるものはないのか?
生物の階層性
遺伝子が究極的に淘汰の単位であることは事実
進化のレベルを考えるには、生物の階層性を考慮せねばならない
単細胞から多細胞のものが進化し、単独性のものから社会性のものが進化したが、それはユニットが複数集まって新しいユニットを形成することで生じた
一つ上のレベルでのユニットが生じるごとに、そのユニット内で共存している遺伝子どうしは、いわば同じ運命を共有することになった
個体という生命の単位ができれば、同じ個体内におさまっている遺伝子どうしは、その個体の運命を共有することになる
同じ細胞内、同じ個体内に存在する遺伝子どうしの間で、自分だけが複製を作って他を犠牲にするような、それこそ「利己的遺伝子」が現れたとしたら、その遺伝子の複製か個体全体の複製か、どちらが優先するようになるか
いったん個体という単位ができれば、いくつかの例外を除き、個体の複製が優先されることになる
そこで、一つの個体内に存在する遺伝子の働きは、個体全体の生存と繁殖に有利であると同時に、その遺伝子の複製にとっても同じ用に有利であるように働いていると考えられる
個体を形成している生物では、個体が繁殖活動をし、繁殖に成功して子を残さなければ、個体の内部に存在するどんな遺伝子も自分自身を残すことはできない
これこそが個体の重要性であり、遺伝子の利益と個体の利益とが合致せねばならない所以
究極的には遺伝子の存続が進化の本質だが、それを具現する手段として、個体は特別の存在理由を持っている
したがって、遺伝子の存続は、さまざまな個体レベルでの適応を生み出した
だからこそ、個体は主体性を持ち、自己主張する
複数の個体が作っている集団はどうか
遺伝子は集団の存続にとって有利な形質を現すことがあるのか?
ここでは、一つの細胞や一つの個体におけるようには、上のレベルのユニットと遺伝子との利害の一致が簡単に生じるとは考えにくくなる
それは集団がどのような性質の個体からなる、どのような集団にあるかによる
種などといった漠然とした集団は、その中に内包する遺伝子どうしの利害の一致という点では、まったく単位となれない集団
しかしながら、ミツバチの巣やアリの巣のように、それが一つの淘汰の単位として働くことが可能な集団も存在する 集団レベルでの適応度が、結局はそれを構成している個体、およびその個体が持っている遺伝子の適応度に影響を与えることになり、集団レベルでの淘汰が生じる
それがどのように働くか、近年の進化生態学の大きな論争点であり、様々な研究がなされている("The American Naturalist"誌の150巻(1997)別冊を参照)